2008年04月17日

クルセイダーキングスAAR連載第8回「ヌラディン・ドラスコヴィク、戦場を駆ける」

まず訂正を二つほど。まず、前回1160年で100年過ぎたと書きましたが、スタートは1066年なのでまだ100年過ぎて無かったですね。今回で100年は過ぎます。

あともう一つ。前回封臣になることを望んだのが「トランシルヴァニア伯爵」なんて書いちまいましたが、正しくは「トランシルヴァニア公爵」でした。えらい違うぞ、これ。

平謝りしつつ前回の続きです。まずこの画像を見ていただきたい。

ビザンティン分裂カーソルを合わせるとタイトルが出るが、説明の要は有りそうなので説明させていただく。

このマップの紫の部分がビザンティン帝国とその封臣の版図である。ここで地理と中世ヨーロッパ史(東ローマ帝国の盛衰)をご存知の方なら「あれ?」と思われるかもしれない。

コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が紫色ではないのだ。現在コンスタンティノープルはブルガリア王国の首都になっている。

この時点でブルガリア王国に封臣はいない。封臣はあらかたビザンティン帝国が持って行った様だ。だが請求権はブルガリア王が握っている。

これは我々にとっては願ってもない展開だ。ブルガリア王国はコンスタンティノープルを握っているとはいえ、封臣も無くかなり脆弱だ。請求権を捨てさせるためにこちらから戦争をしかけることはできないが、こちらに仕掛けてくる可能性は極めて小さい。これだけでもセルビア王国にとってはありがたい。後にこれと同じ現象がローマカトリックの大国、ドイツ王国でも起こった。この時は封臣はあらかたドイツ王国が握っていたが、当時わが国がドイツ王国と結んでいた同盟はブルゴーニュ王国が引き継いだ。

だが問題は国内にあった。1161年11月、ワラキア公爵が独立を宣言したのだ。即座に宣戦を布告し、王国の総力を上げてこの独立を阻止した。そうやって戦っているうちにワラキア公爵も代替わりしたので、1162年7月にこちらの封臣になることのみを条件に和平を行った。

代替わりしたことで反乱の可能性は低いし、何よりも領土を取り上げなかったことで”評判”が下がらずに済む。

”評判”を下げたくなかった一番の理由はそろそろ十字軍への貢献を行いたかったのだ。

このゲームにおける十字軍とはかなり広い意味で捉えられており、異教徒の討伐そのものを言う。つまりここで言う十字軍とは聖地エルサレムの奪還だけではなく、レコンキスタ(イベリア半島の国土回復運動)やドイツの東方植民も十字軍という範疇に入る。現在要請されている十字軍はレコンキスタすなわちイベリア半島を舞台とすることになる。


イベリア半島それを踏まえた上でこの画像を見て欲しい。これは1160年時点でのイベリア半島の情勢だ。盾になっているのがキリスト教圏で円形がイスラム教件だといえばどれだけ悲惨な状況かお分かりいただけるだろう。 






だがこんなこととは全く関係無く、わが国が標的に定めたのはシチリア島である。シチリア島は全域がイスラム教徒が占拠しており、ここを攻撃するのは国土回復運動には違いあるまい。シチリア島はいくつかの首長国に分かれ、その全てがフェズ首長国および、アル・ムラービト王国の臣下であった。1163年9月、そのうちの一つパレルモ首長国に宣戦布告。この宣戦布告に応じて、シラクサがこちらに宣戦布告を行う。シラクサもこちらのターゲットの一つだから手間が省けたということだ。アル・ムラービト王国はすでにヨーロッパ諸国から攻撃を受けておりこちらに有効な反撃を行える状態ではなかった。パレルモ首長国を最初に持ってきたのはパレルモ首長国が一番厄介な相手だったからだ。1164年6月(移動時間込みだからこれだけ時間がかかった)、パレルモ首長国が降伏。同年8月にはシラクサ首長国も降伏。だがこれではまだ目標はシチリア公爵を名乗るという目的は達成できない。即、マルタ首長国に宣戦を布告した。マルタ首長国はシチリア公爵を名乗るために必要なシチリア地区をを3ヵ所領土としており、これを制圧すればシチリア公爵への道が開ける。

多少は苦労したが一番厄介だったパレルモが落ちた時点で勝負は付いていた。1165年9月、マルタ首長国が降伏。この時点でシチリア島に残されたイスラム領は一つだけだったが、シチリア公爵の称号を得るための条件が整った今、急いで戦争する必要は無いだろう。

そして、手に入れたシチリア公爵の地位をシチリア島全域と共に息子のファリドに譲り渡す。

1166年9月にはアル・ムラービト王国からの痛み分けによる和平の提案が来て、この”シチリア解放戦争”はこちらの勝利で終結した。

また少し時間をかけて”評判”を回復させようと見るとクロアチアで封臣が相次いで反乱を起こしているではないか。どうもクロアチア国王がまたぞろ異端にはまったらしい。すでにスラヴォニア、クロアチア両公爵が離脱。クロアチア王国と戦争状態に突入していた。

かつて奪い取るのを断念したゼータとラグーサを奪い取るためにこの絶好のチャンス、逃す手は無い。(世間ではこういうのを火事場泥棒と言います)

まずは1170年4月、スラヴォニア公爵に宣戦を布告。7月にはゼータを奪取。8月には相手側からゼータ譲渡で和平を申し入れてきたのでこれに応じる。

続いて1171年1月にはクロアチア公爵に宣戦布告。2月にはザフルミア(ラグーサに隣接するクロアチア公爵領)を陥落させ、4月にはラグーサを落とす。その後小規模な戦闘があったものの、すでにこちらは所定の目標は達成していた。10月にはザフルミア、ラグーサ譲渡で和平を受諾。

この強奪行為の余波でスラヴォニア公爵領は壊滅。クロアチア公爵は何とか命脈を保ったが、苦しいことには変わりあるまい。そしてかつてウソーラ伯爵、テメシュ公爵時代の宗主国だったクロアチア王国は封臣を全て失い、寂しい国家になってしまった。

あと書き加える事といえばワラキア公爵の第1継承者がドイツ方面で独立公爵になったことだろうか。たまにこういう不可思議な継承が起こる。そういえばかつてヌラディンが仕えていた、バーチ伯爵領は現在イングランドの封臣だったりもする。

クロアチア王国に止めを刺す準備を整え、”評判”が戻るのを待っていた1180年9月14日、ヌラディン・ドラスコヴィク死去。その地位はシチリア公爵であったファリド・ドラスコヴィクが受け継いだ。これで彼も正式に”ファリド2世”と呼ばれるようになる訳だ。(前にも言ったけどこのゲームではそこまでサポートしていない)

次回はこのファリド2世の奮闘を中心に描くことになるだろう。
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2008年04月14日

クルセイダーキングスAAR連載第7回「まだ100年」

まずは言い訳から。前回ショートストーリを予定していると書いたんですが、いざ書こうとするとどうもパッとしない。それで悩んだ結果、こんなところでうだうだしているならAARを先に進めた方が建設的だ、ということで今回もいつも通りのAARです。

ショートストーリーですが、一応中断ということで。またなんかいいネタになりそうなのがあったら、挑戦してみたいと思っとります。(期待していた人がいるかどうかは知らないけど)

と、言い訳はそのくらいにして前回の続き。

まず、やったことは直轄領の分割である。ニコポリスをワラキア公爵に渡し、セルディカを伯爵領として独立させる。

何でこんなことをやるのか。前回も言ったとおり能力的な関係でファリド・ドラスコヴィクが直轄領として治められる領地は少ない。その負担を軽減する、というのが第1の目的。

第2の目的はもっと切実で、ビザンティンからの攻撃を最小限に食い止める。これは何回かのトライ&エラーで学んだことだ。これに関してはちょっと解説が必要か。

ここでわがセルビア王国の状況を簡単に解説したい。セルビア王国の封臣はワラキア公爵だけ。その他は王国の直轄領である。その直轄領の半分にはビザンティン帝国の請求権が及んでいる。ビザンティンの請求権が及ばないところもクロアチアの請求権が及んでいたりする。

はっきり言って、クロアチアとビザンティンどちらかに、いつ喧嘩を吹っかけられてもおかしくない状況な訳だ。

前回見たとおり、クロアチアの攻勢なら何とかしのぎ切れる。だが、フルパワーのビザンティンはそうはいかない。その被害を最小限に食い止めるために直轄領を削るという策を思いついた。

例を挙げよう。例えばセルディカにはビザンティンの請求権が及んでいる。セルビア王国の直轄領ならセルビア王国に宣戦布告することになる。そのまま戦うと相手の圧倒的な物量の前に直轄領をごっそり持っていかれることになる。実は今までのトライ&エラーで何回かこれをやられたのだ。

そこで廷臣にセルディカを渡し、セルディカ伯爵領にしておけば、セルディカ伯爵に宣戦布告することになり、主君たるセルビア王国には参戦するか否かの選択権が与えられる訳だ。それでセルビア王国が参戦しなければ彼らはセルディカ伯爵領としか戦うことができない。間違いなくセルディカは占領されるだろうが、こちらの被害はセルディカだけで済む。

これで相手からの宣戦布告の可能性を減らす効果も期待できる。(セルビア王国に宣戦布告しても封臣の領土までは奪えないから、戦争で得られる利益が少ない)


再開してすぐにバーチ伯爵領に残ったままだった息子のヌラディン・ドラスコヴィクもこちらの臣下となった。彼にはヴィディンとナイッススを渡して、ヴィディン公爵とする。そして独身だったヌラディンにはセルディカ伯爵領の廷臣と結婚させる。

1148年にはファリドと名付けられた(国王となれば彼はファリド2世と呼ばれることになるだろう。このゲームはそこまでサポートしてないけど)息子も誕生し、順風満帆であった。

そして1156年5月1日、ファリド・ドラスコヴィクが亡くなる。そしてその跡をヌラディン・ドラスコヴィクが受け継ぐこととなった。ヌラディン・ドラスコヴィクは管理能力に問題は無く、直轄領をそのまま治めきれる。よって、息子ファリド2世(とりあえず今回はそう仮称する)が成人するまでそのまま直轄地として治めることにする。

あと、わが国がらみのことで書くべき事は一つだ。トランシルヴァニア伯爵がわが国の封臣となることを望んだのだ。当然これを断る理由はない。

そうして1161年まで進める。スタートが1060年だから、これで100年が過ぎたわけだ。まだ100年だ。

次回は国内情勢よりもレコンキスタとビザンティン帝国の情勢がメインとなるだろう。
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2008年04月11日

クルセイダーキングスAAR連載第6回「引継ぎ」

1141年から1145年までは一族間において激動の時代であった。

ゲーム再開時にまずやったことはアンドリヤに後妻を迎えることであった。別にこれは子供を期待してのことではない。月々の収入を司る「管理」能力の高い人物を迎えたかったのだ。

現実の中世がどうだったかは知らないけれど、このゲームにおいては女性はなかなかに活躍の場が広い。さすがに軍事や宗教関係の役職には付けないけれど、外交や財政においては男性と変わらない活躍ができる。女性領主もそう珍しくない。それでシャンパーニュ公爵から「管理」能力の高い女性を迎え入れたのはいいのだが・・・。


アンドリヤ、死去開始直後にアンドリヤが死ぬっていうのはあまりにできすぎてるよなぁ。距離を考えると、輿入れの途中で亡くなったと考えるのが妥当なのかな。ゲームだから距離ってのは考慮に入っていないんだけど。












ともあれアンドリヤの跡を継いだのはテメシュ公爵だったプリェツダであった。プリェツダに引き継いだ後すぐに継承法を変更する。前回書いた通り、長子相続から親族継承にすることでセルビア王”ドラスコヴィク”は守られるわけだ。ワラキア公爵(すでにマカリィは亡くなっており、その息子が引き継いでいる)はこの法改正で相続順位が上がるのに何で不平をもらすのだろうか。それが”仕様”なんだけど。

それから約1年後の1142年12月、何を考えたのかクロアチア王国が突如宣戦を布告。続いて封臣であるクロアチア公爵とヴァラジン伯爵も宣戦を布告したが、スラヴォニア公爵が動かなかったはこちらとしては最大の救いだった。即座に軍を動員し、逆にこちらから仕掛ける。


クロアチア公爵、ヴァラジン伯爵脱落この戦争はワラキア公爵の手を借りる必要も無かった。1143年1月の末にはクロアチア公爵とヴァラジン伯爵が脱落。












クロアチア王国と和平続いて2月にはクロアチア王国が和平を求め、この戦争は終結した。本当に何だったんだ?






1144年5月、プリツェダ・ドラスコヴィク死去。跡を継いだのはワラキア公爵・・・ではなくてバーチ伯爵領の廷臣だったファリド・ドラスコヴィクであった。言ってしまえば出戻り君主というわけだ。

しかもこのファリド・ドラスコヴィク、自身の文化は当地南スラヴではなく、母方の文化であるアラブ文化なのだ。

妻はすでに亡く、廷臣に何人か30代の女性がいたのでその中の一人を後妻に迎える。まあさすがに先々代の後妻ではないけどね。

このファリドは能力的な問題で管理できる領地が少ないというのが不安要素か。

とりあえず今回書く事といったらこれくらいかな。

次回はAARから少し離れて、ある一つのイベントを元にしたショートストーリーを予定している。(SSという略称だと「ショートストーリー」なのか、「スクリーンショット」なのか分かりにくいんだよ)










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2008年04月07日

クルセイダーキングスAAR連載第5回「王国の問題」

国王になってまず初めにした事はテメシュ伯爵(つまり自分の息子)をテメシュ公爵にすることだった。

それとは別にヴィディン地区を制圧したことでヴィディン公爵の地位を簒奪(正当な理由に基づいた要求。当然、下がる”威信”は少ない)できるようになったので、ヴィディン公爵の地位を要求。ヴィディン王子(カトリックとギリシャ正教で名称が違うのはちょっと煩雑だなぁ)はこちらの”忠誠を誓え”という要請を受諾したことで、セルビア王国は戦わずして封臣を得た。ただその当時、ヴィディン王子はニコポリス伯爵と戦争中だったので軍を送り、ヴィディン王子のニコポリス制圧を支援した。

その後ハンガリーから離脱したトゥルヌ伯爵の称号を要求、直後に侵攻。この制圧も簡単に終わった。これをやった理由はたった一つしかない。ここを制圧することでワラキア公爵創設の条件が整うのだ。

ワラキア公爵を創設し、ワラキア公爵の称号をトゥルヌと共にマカリィ・ドラスコヴィク”セヴェリン伯爵”に授与する。

これでしばらくは大きな戦争をする必要も無いだろう。あとは内政を続ければ良い。だが、王国が大きな問題を抱えているのもまた事実。

まず一つ目は外交問題だ。paradoxのゲームで特徴的なのは宣戦布告や併合を繰り返すと、周囲の国から”好戦的な国”とみなされて、戦争を吹っかけられやすくなるというのがある。

これは「ハーツオブアイアン2」のように具体的な数字で示されることもあれば「ヴィクトリアレボリューション」のように全く隠しパラメータとして扱われる場合もある。このクルセイダーキングスとヨーロッパユニバーサリス(2でも3でも)はこの中間で具体的な数字は出てこないけれど、”評判”がどの程度の位置にあるかが文字として示される。

今まで国王になるため強引な称号要求→宣戦布告→併合を繰り返した結果、評判は地に落ちたわけだ。この”評判”を上げるためには戦争をせずにおとなしくしているしか方法は無い。(この”評判”が上下するイベントもある)

クルセイダーキングスの場合はこの外交問題は内政問題でもある。なぜならこのゲームは封建社会を描いているからである。封臣は君主に忠誠こそ誓っているもののその忠誠はいつでも切れたし、別に切ることは恥でもなかった。だから前にも書いたように封臣が別の君主に忠誠を誓うようなことも普通に起こるのだ。

すなわち封建社会であるが故に”評判”は封臣にも影響するのだ。「評判の悪い君主には付いていけない」と忠誠を切られる恐れもあるし、それどころかこちらに戦争を吹っかけてくる場合も多々ある。そういう敵を撃破し、併合すればまた”評判”が下がり、封臣をどんなに任命しても、その封臣が次々に離反して行き、結局は国内が疲弊するだけ。それで「骨折り損のくたびれもうけ」どころか、その弱ったところをつけこまれて、蹂躙されるということも珍しいことではないのだ。

封臣の忠誠心の上下を決めるのは以下のことが関わってくる。
・君主個人の特性
当然、封臣が反抗的なら忠誠心は徐々に下がるし、逆なら上がっていく。

・君臣の関係
「クルセイダーキングス デウスウルト」には”友人”と”敵”というパラメータもある。当然、”友人”なら上がり、”敵”なら下がっていく。さらに封臣が継承権を持っていれば上昇する。

・国内法
中央集権的な法を施行すれば当然下がるし、分権的な法を施行すれば上がる。

・”評判”
・”威信”
この二つについてはすでに説明した。ここで注目して欲しいのは”威信”の値も封臣の忠誠に関わってくるという事だ。それはすなわち”評判”が落ちても、”威信”を得られれば相殺できるということだ。異教徒に対する宣戦布告→併合でも”評判”は落ちる。しかし、宣戦布告の為に”威信”を消費する必要はない上に、戦闘で勝ち、併合すれば”威信”が上昇する。要するに異教徒相手なら勝ち続けさえすれば、封臣の忠誠心をどんどん上げる事が可能な訳だ。

キリスト教徒同士の戦いではこうは行かない。称号の要求のためには”威信”が必要で、勝って併合して得た”威信”は消費した”威信”を取り返せるほどではない(無理やり称号を強奪した場合)。
伯爵、公爵までならこの”威信”と”評判”はそれほど気にする必要は無い。なぜなら封臣のことを考える必要はあまり無いからだ。(廷臣の忠誠に”評判”は影響しない)
だが国王となった今、王国を維持するためにはこの”威信”と”評判”は必要不可欠だ。だが後々の為に”威信”を使って、各地につばを付けておく必要はある。”威信”は君主個人に掛かる物で墓場までは持っていけないし、その数値が後継者に引き継がれることも無いが、請求権は後継者に引き継がれるからだ。

まあ、あまりにそれをやりすぎた結果、ヴィディン王子に反乱を起こされ、結局これを併合しなければならなかったのは明らかな失策だった。

もう一つの問題は王位継承だ。
ここでゲームオーバーの条件というのを示していこう。まず一つには当然国家が併合されてしまった時だ。もう一つは国家に後継者がいなかった場合だ。普通に考えれば国家に後継者がいないなんて事はまず無い。国王の継承者というのはどこかここかにいるものだ。

だがこのゲーム的な後継者とは男系。すなわち”ドラスコヴィク”の名を引き継いだ者に限られる。

説明用顔グラフィックこれはゲーム開始時点の君主、ベルナルディン・ドラスコヴィクの顔グラフィックである。左下に赤い水滴のようなマークが付いているのが分かると思う。これが男系男子(つまり後継者として操作可能)であることを示している。









ミルコ・ドラスコヴィクには子が無く、その地位は弟であったアンドリヤ・ドラスコヴィクに引き継がれた。アンドリヤ・ドラスコヴィクにはテメシュ公爵に封じた息子、プリェツダ・ドラスコヴィクがいるが、そのプリェツダの二人の子供はどちらも娘。しかも、1140年の段階でプリェツダは50歳を超え、もうこれ以上の子供は望めない。そしてベルナルディンの子はあと女性が二人いるだけだ。

これはもうほとんど詰んでしまっている状況だ。しかしベルナルディンにはもう一人子供がいる。それは非嫡出子(「それ、なんてエロゲ?」というようなイベントの結果、生まれた子)であるシメオン・ドラスコヴィクだ。だが、彼の一族は王位継承からはオミットされているのだ。なぜならシメオン・ドラスコヴィクは正式な子供ではないから。それでも血族として血を引いているのは確かだから、かの一族も後継者としてリストアップされている。

ミルコ、アンドリヤ、そしてプリェツダは子供に恵まれなかったが、シメオンの二人の子供はどちらも男子、しかもその子らも順調に一族を増やしていた。これは歴史の皮肉というべきなのか。

今のままではシメオンの一族が王位を継承する可能性は無い。だが何とかしてこのシメオンの一族へと王位継承をシフトせねばゲームオーバーは避けられない。では、その方法は何だろうか?

方法は二つある。一つはそのシメオンの一族の男子とプリェツダの娘を結婚させる方法だ。そうすると婿の一族も同じ血統となるからそこに男子さえ生まれれば後継者の問題を回避できる。だがこの方法は倫理的およびゲーム的に大変なリスクを背負う方法だ。当然、アンドリヤとシメオンは異母兄弟に当たる。その一族同士の結婚となれば極めて近い血統での婚姻ということになる。同じような時代を扱い、血統が大きくものをいうコーエーの「蒼き狼と白き雌鹿」ではこのやり方は事実上不可能だったし、そうする理由も無かった。だが、このゲームではこの方法が可能なのだ。さすがに実の親子とか実の兄弟姉妹間の婚姻ってのはできないけど、いとこ同士位なら十分婚姻可能なのだ。

倫理的なリスクというのはまあ理解できるだろう。ここで問題となってくるのはゲーム的なリスクだ。現実問題として近親婚がなぜできないのか?それは近親間で生まれた子供に遺伝的な障害が発生する可能性が極めて高いからだ、と説明される。このゲームではそれも忠実に再現されていて、近親間で生まれた子供には高い確率で「近親婚」の特性が付く。この近親婚の特性は各能力値−5、子供の生まれやすさを表す隠しパラメータである生殖力に−5されるというものだ。

それほどのペナルティーを持った子供が国王になったらどうなるか。実はトライ&エラーの間にやったことがある。その時はそうやって近親間で生まれた男子が2歳くらいで王国を引き継ぐことになり、能力値は全部0、直轄領として治められる領土はわずかに2ヶ所という悲惨な状況になった。

要するにこの方法は禁断の方法だということだ。しかももうこの方法は実行不可能だしね。(プリェツダをテメシュ伯爵に封じた時点で娘の婚姻をコントロールすることができなくなるから)

だから必然的にもう一つの方法が取られる。それは継承法を変えるというやりかただ。つまりシメオンの一族が王国を継承できるような法律に変更すれば良い。この方法のリスクは継承法を変えてしまうと、しばらく変更できないということくらいだ。その下準備のためにマカリィをワラキア公爵に封じたのである。

1122年、息子たちの努力が認められ、シメオン・ドラスコヴィクは正式に一族として認められた。

シメオンが親族に認められた今、現在の長子相続を親族相続に切り替えるだけでこの問題は解決できるだろう。

とりあえず法律変えるのはアンドリヤが死んでからで良いや、なんて思ってたら1140年に至るまで元気でやんの。(この時もう70)

「蒼き狼」が来るのはもうしばらく後のことだ。次回はどんな感じにしようかな。
posted by uzi at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | クルセイダーキングス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月03日

クルセイダーキングスAAR連載第4回「アンドリヤ・ドラスコヴィク、セルビア王へ」

まず、前回書き足りなかったことから。1102年にラマのボスニア公爵領への侵攻を試みたが、上が勝手に和平したので取れなかったと書いた。その後平和協定が解除されるのを待って、1114年にはラマを獲得している。その後ゼータの確保を狙って、ゼータ首長国に宣戦を布告したが一歩間に合わず、スラヴォニア公爵に取られてしまった。しかも主君であったアレッポ首長国に宣戦布告される始末。そこから気を取り直して完全独立していたラシュカ首長国に宣戦布告しようと思っていた矢先にミルコの訃報に接した訳だ。

セルビア王即位の条件となる領地は8つで、そのうち6つ取ればセルビア王に即位できると前々回に書いた。
その8つは以下の通り。括弧内は1114年段階での所有者である。
・ベオグラード(所有)
・フム(所有)
・ラマ(所有)
・ヴィディン(ヴィディン王子)
・ナイッスス(ビザンティン帝国の封臣、ナイッスス伯爵)
・ゼータ(クロアチア王の封臣、スラヴォニア公爵)
・ラシュカ(ラシュカ首長国)
・ラグーサ(クロアチア公爵の封臣、ラグーサ伯爵)
補足するとクロアチア公爵はクロアチア王の封臣である。クロアチア王国ということならば、あと一つとればセルビア王即位の条件は整う。ところがクロアチア王国は結構まじめに十字軍していて金銭的には全く余裕が無い。しかも前回の「ミルコ公実記」で書いたように現在のクロアチア国王は異端に染まっているので、いつ国内反乱に巻き込まれてもおかしくないのだ。だからしばらくの間はクロアチア王がセルビア王を兼ねるなんて心配はしなくて良い。

さて、代替わりしたアンドリヤ(前回アンドリアと書いたが、ゲーム上の表記がこれなので以後こちらにあわせる)の最初にやるべきことは当然ラシュカへの宣戦布告だ。

対ラシュカ首長国この戦争は取り立てて書くことも無い。1114年9月にはラシュカを征服。当地を手に入れる。その直後にはアレッポ首長国との自然休戦が成った。







ラシュカ確保後にやるべき事は”威信”の取得である。1115年にはボスニア公爵を名乗り”威信”を100上げる。複数の公爵位を持つことで”威信”の自然上昇率も上がる。そしてラシュカ取得時点で保有限界をオーバーしたのでマカリィ・ドラスコヴィク元帥(ベルナルディンの非嫡出子、シメオン・ドラスコヴィクの息子)をセヴェリン伯爵に封じる。この当時セヴェリンには天然痘が蔓延しており、とりあえずここを切り離しても影響はほとんど無いだろうと言う判断からだ。その後、実の息子が「私はひとかけらの土地すらいただけないのでしょうか?」なんて言って来やがったのでテメシュ伯爵に封じる。まあ実の息子だから領地を渡すのは当然だし、テメシュはセルビア王即位の条件ではないから、渡しても問題無し。それから建造物の中にも建てることで”威信”にボーナスが入るものも有るから、それを中心に作って行く。それからラシュカを得たことで”ラシュカ公爵”の取得条件も整ったので”ラシュカ公爵”を名乗り、また威信を100上げる。

君主との関係のあり方ここで「君主を裏切ってしまおう!」を選択する。もうクロアチア王国にいる必要は無い。











忠誠の誓いを代替わりしたクロアチア王への忠誠を拒んだことで正式にテメシュ公爵は独立公爵としての道を歩み始める。時に1115年12月、これで上からいきなり停戦を言われるということは無くなった訳だが、クロアチアの庇護はもう受けられない。






対ヴィディン戦争これで条件が整ったので、ヴィディン伯爵の称号を要求。それを口実にヴィディン王子に宣戦を布告する。この戦争の目的はセルビア王位取得の条件たるヴィディンの獲得だ。故にヴィディン割譲での講和をヴィディン王子から受けた時、それを二つ返事で受諾した。






これで残るは3つ。どれか一つを取ればセルビア王家設立の条件は整う。ここで、はたと止まる。

残る3つのうちゼータとラグーサはクロアチア公爵とスラヴォニア公爵の領地だ。だがこの二つともクロアチア王の封臣。そしてもう一つのナイッススはビザンティン帝国の封臣。

クロアチア公爵かスラヴォニア公爵がクロアチア王国に反旗を翻すというのを期待していたのだが、それは起こらなかった。しかも異端信仰を持った国王はすでに亡く、これ以上の反乱も期待できない。

ビザンティン帝国も凋落期にあるとはいえ、いまだこの時代のスーパーパワーであることは疑い無い。

まずやったことはナイッスス伯爵にこちらの封臣とならないかと誘いをかけることだった。スラヴォニア公爵やクロアチア公爵にはこれはできない。(同じ公爵同士だから)
当然、そんな事がうまく行くはずも無い。ナイッスス伯爵に門前払いを食らったのである。

そうなればもう戦争しかない。問題はどこと戦争するかだ。ゼータかラグーサを手に入れるとなれば必然的にクロアチア王国との戦いとなるだろう。ナイッススに戦争を仕掛ければビザンティン帝国が黙っちゃいない。
開戦の機会を待つ余裕はこちらには無い。さてどちらと戦うか。気分はもう「その時、歴史は動いた」である。

ここで我々はナイッスス伯爵領への侵攻を決意する。理由はこうだ。

・クロアチア王国は国王が代わり、反乱の可能性はほとんど無い。そして対外戦争も抱えていないのでフルパワーでこちらに挑むことが可能。

・それに対してビザンティン帝国は旧封臣による独立戦争を抱えており、こちらにフルパワーで挑むことが困難。

・クロアチア王国はこちらの領地に対するかなりの請求権を持っており、下手に大敗北を喫すればそれこそ致命傷になりかねない。

・ゼータとラグーサはスラヴォニア公爵とクロアチア公爵の直轄領になっており、長期戦は否めない(長期戦になればこちらが圧倒的に不利)が、ナイッスス伯爵領ならば獲得という一点に関して言えば極めて短期間での制圧が可能。

そして1117年4月20日、その時歴史は動いた。ナイッスス伯爵位を請求した直後、ナイッスス伯爵領に宣戦布告を行ったのだ。予想通り、ビザンティン帝国およびいくつかの封臣がテメシュ公爵領に宣戦を布告した。

ナイッススとの和平同年6月25日、ナイッスス伯爵領を制圧。その後、ビザンティン帝国との散発的な戦闘が行われる。戦いは困難を極めたがこちら側有利で事は進む。





ビザンティン帝国との自然講和そして1118年8月26日、ビザンティン帝国との痛み分けによる和平成る。










これでセルビア王就任の条件は整ったが、戦争で金を使っていたために国王就任には少しの時間が必要となった。(国王になれば”威信”が250上がるが同時に必要な資金も250いる)




1119年3月4日、アンドリヤ・ドラスコヴィクはセルビア国王に即位したのである。
国王就任前セルビア国王就任後










左が国王に就任する直前で右が国王に就任したあとの画像である。君主の顔グラフィックを囲う囲いが変わり、紋章もセルビア王を示す紋章に変わったのが分かるだろう。

これで目的の一つは成った。だがこれはまだ序章に過ぎない。ゲームの制限時間はまだ果てしなく、1452年12月30日まで続くのだ。
セルビア王国は成ったが、まだ大きな問題が残っている。次回はその辺の解説からして行こう。

 
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2008年04月02日

クルセイダーキングスAAR連載第3回「ミルコ公実記」

ミルコ・ドラスコヴィクが生まれたのは1067年10月17日のことだった。

幼き日を乳母と共に育った彼はその当時から才気あふれる神童として宮廷内でも評判であった。

そんな彼の運命が激変したのは1074年1月24日、父ベルナルディンが病死(第1回参照のこと)したことからだった。折りしも領内では疫病が蔓延し、多くの民が死に瀕していた時だった。

どんなに才気あふれると評判だとは言ってもそこはまだ6歳の少年である。重臣に囲まれ、ただ椅子に座っているだけのいささか頼りない君主であったことは否めないだろう。

その当時からつらいことがあると乳母の元に逃げ込むような事を繰り返していた。それ故に周囲からは「臆病者」と笑われることも多かったという。

1083年11月、小アルメニア王子の家臣の娘であった、べルジューイとの婚姻が決まる。この結婚は決して幸福な物とは言えなかった。

そんな彼の初陣は1086年、北方のペネシェーグ族討伐の陣頭指揮を執った時だ。その際にベオグラードとテメシュを平定。そのままペネシェーグ族との和平へと持ち込んだ。

1087年3月22日、戦勝式典でミルコは自らをテメシュ公爵と称したのである。そしてベオグラードへの遷都もその日に皆に伝えた。

その頃から徐々に彼の顔には疲れのような色が見え始めていた。もともと戦いを恐れるような性格だった上に1091年には彼を庇護していた乳母が亡くなる。彼はその報をセヴェリン部族国家との戦いの最中に受けたのである。

続く戦い、乳母の死、夫婦間の不仲、そのような心労は少しずつの心を蝕んで行った。その頃にはもうすでにうつ病と称しても良いくらいであった。そんな彼の唯一の救いは友の存在であった。特にクロアチア王コズマとの友情は終世変わる事無く、コズマ王が異端に傾倒して行った中にあっても信仰を捨てる事無く友情と忠誠を保ち続けたのには彼の強さを示すものではなかったろうか。

1097年にはこれまで対立していた弟アンドリアとも和解。もし世継ぎが生まれなければ彼に後事を託すと誓い合った。

1102年、ボスニア公爵領との戦いは同族との争いではあったが気丈にその陣頭指揮を執った。だがこの戦いはクロアチア王の一方的な和睦命令で終結する。それでも彼はこの講和命令を唯々諾々と飲み込んだ。

1108年、ベルジューイが肺病で亡くなると重臣達はブレーメン伯爵領で宰相を勤めていたブランカを後妻へと迎える。だが、この結婚も早々うまくは行かなかった。

そして1114年6月27日、ほとんど看取る者も無いまま、ミルコ”テメシュ公爵”ドラスコヴィクは47歳で亡くなった。

死後、彼はローマ教会への貢献が認められ、聖人の列に加わることを許された。そして彼の地位は、生前の約束どおり弟のアンドリアが受け継ぐこととなった。

ミルコ・ドラスコヴィク











ミルコとアンドリアの最も大きな差はクロアチア王への忠誠心であるといって良いだろう。アンドリアは生前ミルコがクロアチア王に感じたような友情は無い。新たな王朝設立への準備を始めているとも聞く。

アンドリアの戦いはすでに始まっているのかもしれない。


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posted by uzi at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | クルセイダーキングス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月01日

クルセイダーキングスAAR連載第2回「王への道」

 まずは前回予告した爵位を上げるメリットについて話していく。

まず、第一に威信の自然上昇率が上がるというのが挙げられる。また公爵位や、王位を創設すると”威信”が大量に手に入る(公爵だと100、王位だと250)というのも見逃せない。

第二に君主が直接治めることができる領地の数が増える。それをオーバーすると収入効率が落ちたり、反乱の可能性が増えたりする。

第三に家臣を封じることができる。公爵になれば伯爵を王になれば公爵を封じることができる。こうして封じられた家臣は封臣となり君主に忠誠を誓いながらも土地を治めていく。君主に忠誠を誓っているとは言いつつも君主からの動員令を拒否したり、ひいてはその君主との縁を切って独立したり他の君主の傘下に入ったりなんて事もあるわけだ。
 でも二つ目に言ったとおり、直接統治できる領地の数に制限がある以上、どうしても家臣を封じる必要がある。そうやって封じた家臣の数に応じても”威信”の自然上昇率が上がるのだから全くデメリットばかりじゃない。
 最後に自分の直系の男子が封臣でない場合”威信”値にペナルティーがあることもあわせて覚えておこう。

解説はこのくらいにして再開だ。

1093年の状況これが現在の状況である。緑色の部分がクロアチア王国の領域で、その中でちょっと濃くなっているのがテメシュ公爵領(つまり担当国である旧ウソーラ伯爵領)である。わが国は今もなおクロアチア王国の封臣である。ここでちょっと前回の訂正。
宮廷に参内しているから廷臣、土地を封じられているから封臣ななわけだが、前回、その辺の区別が明確でなかった為にセヴェリン部族国家をペネシェーグ族の廷臣と書いてしまった。当然、正しくは封臣である。お詫びして訂正いたします。

王国建国を目指す我々の進むべき道は二つある。誰かの王位を奪うか、自ら王を名乗るかである。王位を奪うのならば一番手っ取り早いのはクロアチアに反旗を翻してその王位を乗っ取る事だ。

今回のところはとりあえずクロアチアの乗っ取りは行わない。と、なると一番手っ取り早く狙えるのはセルビア王位だ。

セルビア王位創設の条件として定められる土地は8ヵ所。このうちの66%以上(つまり6ヵ所以上)を所有できればはれてセルビア王位を創設する準備が整う訳だ。(創設のためには金がかかる)

現在の領地ウソーラ、ベオグラード、テメシュ、セヴェリンのうちセルビア王位創設の条件の土地に含まれているのはベオグラードのみ。あと5ヵ所は取らなきゃならないって事だ。

まず1093年にフム伯爵領(ベオグラードのすぐ南にある青色の紋章、ちなみに西側にある蒼い紋章はボスニア公爵の紋章である)の称号を要求し、それを口実に宣戦を布告。フム伯爵はジオクレア公爵(フム伯爵領の南にある黄色地に相当の鷲が描かれた紋章)から独立し孤立無援の状態だったので制圧にはさほど時間はかからなかった。それどころか野戦軍が敗北した時点でフム伯爵は素直に爵位をこちらに引き渡した。

それからしばらくの間は内政(といってもこのゲームでは大したことはできないのだが)にいそしんだ。セルビア王位取得に必要な土地の内ラシュカとゼータはイスラム国家のアレッポ首長国の所有なので宣戦布告しても良かったのだが(しかもアレッポ首長国はこの時点でビザンティン帝国と戦争していた)、クロアチア王国とアレッポ首長国の平和条約期間中だったため(これを破ればイスラム国家だろうと”威信”が下がる)侵攻は見合わせた。他の地域も現状では称号が請求できないので動きを取ることができなかったのだ。

そんなこんなで1101年(つまり11世紀の終わり)まで進めた。以下がその状況である。見方は最初の奴と同じ緑色の部分がクロアチア王国で、ちょっと濃い色をしているのがそのクロアチア王国の封臣であるわがテメシュ公爵領である。こうやって見ると真ん中のボスニア公爵領が白くなっているのが分かるだろう。つまりボスニア公爵領はクロアチア王国から独立したのだ。しかもこのボスニア公爵領であるラマはセルビア王位設立のための条件に入っているのだ。

実はこれ以降も進めてあるのだが、それは次回だ。次回はここまで引っ張ってきた君主、ミルコ・ドラスコヴィクの伝記のような形で綴っていきたい。
posted by uzi at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | クルセイダーキングス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月31日

クルセイダーキングスAAR連載第1回「始まってしまった物語」


初期状況これがゲーム開始直後のクロアチア王国領である。真ん中のちょっと濃くなっているところがウソーラ伯爵領である。とにかくまず最初の目的は公爵になることだ。そうしなければ何も始まらない。











ベルナルディン・ドラゴスヴィックそしてこの人物がゲームスタート時の君主、ベルナルディン・ドラスコヴィックである。能力値を見てもらえばわかるように軍事的な才能には恵まれているが、交渉事はからきしである。そして顔グラフィックの横にいくつかシンボルがあるのが見えるがこれがその人物の性格付けを表すものである。これはイベントやプレイヤーの選択によって付いたり消えたりする。そしてこの性格付けは能力値にも関わってくる。シンボルの説明は省かせてもらうが、このキャラクターは「戦術家として名高いものの、猜疑心が強くて女好きだ」と覚えておいてくれれば良い。






物語は波乱の幕開けを見せる。

1073年1月、領内に赤痢が蔓延したのを皮切りに10月には領内に盗賊ギルドが結成され。極めつけはベルナルディンが1074年1月に狩りで負った怪我が元で肺を病み亡くなったのだ。長男のミルコはわずか6歳で国家を支えるという重責を担うこととなったのである。しかもこの困難な状況の中で、だ。

領内の赤痢禍が収まったのは1077年になってからのことだった。そのあと1086年あたりまではおとなしくして、そこからミルコ伯の攻勢は始まった。

1086年、すでにベオグラードあたりまで侵略の手を伸ばしていたペネシェーグ族に宣戦を布告。同年にはベオグラードとテメシュをペネシェーグ族の手から解放。そこで公爵就任の条件が整ったのでペネシェーグ族とこの2つの土地の譲渡で和平する。そのままウソーラ伯爵はテメシュ公爵を名乗ったのである。

そして1091年、セヴェリン部族国家(ペネシェーグ族の廷臣)に宣戦布告。そのままここを制圧した。

キリスト教徒と戦いにはいくつかのケースがあるが領土を得る、と言う一点においてはまずその土地を支配する正統性をあらわす称号を要求しなければならない。称号を要求するためには”威信”と言う値を支払わなければならない。もちろんイベントでも要求が発生することはあるが、確率はあまり高くないし、狙った土地の請求権が手に入るとは限らない。しかもこの”威信”値の自然上昇量は微々たるもの(特に伯爵領の場合)で、”威信”値を大幅に上げるためには敵を征服しなければならないのだ。

では、どうしたらいいのか。私は始めに”キリスト教徒の戦い”と述べた。つまり異教徒との戦いではこの制限が無く、自由に宣戦を布告できる。このゲームでは敵軍がいない限り、他国の領域も自由に通ることができる。故にこのゲームでの領土拡張はこんなスパイラルになる。

異教徒に宣戦布告→異教徒の領地獲得で”威信”値獲得→”威信”値を支払って称号を請求→称号の持ち主に宣戦布告→領地獲得(ここでも”威信”が手に入る)

こうやって決められた地方の66%以上を制圧すれば公爵の地位の正当な請求ができる。その地域の公爵位を誰も持っていなければ爵位を創設することができる。もちろん異教徒の土地を占領し続けることで公爵位を得るのもありだ。(今回はこのケース)

国王になるための過程もこれと同じだ。

次回は国王や公爵のメリットから解説して行きたい。


posted by uzi at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | クルセイダーキングス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月30日

愚痴と国選び

まずはちょっとした愚痴から。
 
実のところを言うと他社から出た「クルセイダーキングス日本語版」は持ってるんですが、邦訳はひどいものだし、よく落ちるし(そのくせパッチは出ない)でゲームとしては面白いのにこんなゲームと関係の無いところで評価を落としていた。これも全て某ラ○ブド○のせいだ!

その「クルセイダーキングス」が邦訳を一新し、サイバーフロントから再出発してくれたのは素直に歓迎したい。サイバーフロントはハーツオブアイアンなどこれまでもparadoxのゲームを邦訳してきた実績があるんでかなり安心感を持てる。

ついでといっては何だが、この際だからヨーロッパユニバーサリス2の同梱版を買った。これもよそから出た「ヨーロッパユニバーサリス2 アジアチャプターズ」は持っているが、これだとクルセイダーキングスのデータを引き継ぎが保証外ということなので。

そんな感じだったが、「クルセイダーキングス」を通してプレイしたのは2回。一度目のイングランドの時はスーパーパワーを実感して終わった記憶がある。二度目のモスクワの時はロシア皇帝にはなれずになんか別な国王の称号をとって終わったはず。

さて、ここから国選びだ。この「クルセイダーキングス」のエリアは全世界ではなくて、ヨーロッパと北アフリカと中東が含まれるくらいだ。その中でキリスト教圏の封建領主を選ぶことができる。イスラム、ゲルマンの異教徒は選べないし、キリスト教圏であってもジェノヴァやヴェネツィアのような共和制国家や教皇領や司教などが治める国家も選べない。

制限が多いように感じるが、それにしたって選べる選択肢は限りなく多い。

まず一番大きな選択肢が宗教だ。先にキリスト教圏の領主と述べたが、まだ宗教改革前なので(それはヨーロッパユニバーサリスの時代だ)プロテスタントは無く、ヨーロッパにあるのはローマ・カトリックとギリシャ正教だけだ。

カトリックとギリシャ正教のゲーム的な差はいろいろとある。小さなところでは公爵の呼び方が「王子」になっていたりする(追記参照)。一番大きな差といえばローマ法王がいないって事だろう。だから破門されるって事は無いし、十字軍とも無関係でいられる。

地理的な関係で東方の国家にも面白みはあるんだが、ここはローマカトリックで行きたい。

そんなこんなで選んだのが「ウソーラ伯爵領」である。ほとんどの方にとっては「どこだ、そりゃ?」だと思うが、クロアチア王国の廷臣だといえば地図を見ればなんとなく位置関係はご理解いただけると思う。

宗教は一応ローマカトリックではあるが、ギリシャ正教の領域に近く、クロアチア王国もそれほど大きな王国ではないので(それでも十分な大国には違いないが)事を起こしやすい。そして伯爵領でありながら王国の直臣であると言うのもポイントが高い。まず、ここをスタートラインにキャラクターを追いかける時は国を変えながら進めて行きたいと思う。

次回はヨーロッパユニバーサリスでやったように、まずは自分と周りを見ることからはじめる。


追記
posted by uzi at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | クルセイダーキングス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

クルセイダーキングス デウスウルト

「クルセイダーキングス デウスウルト」は中世ヨーロッパの封建時代と十字軍による聖地奪回を描いた戦略ゲームです。
(「クルセイダーキングス デウスウルト」のマニュアルより)
ゲーム解説としては大体これでほとんどなんだが特筆すべき点が一つある。それはこのゲームが従来のparadoxのゲームに比較してキャラクター性が強いということだ。

だから次回から始まるクルセイダーキングスのAAR連載はそのキャラクターにスポットを当ててみたいと思う。その上で当サイトが掲げて言葉倒れになっている「批評と創作の統合」というのも合わせて行きたい。
posted by uzi at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | クルセイダーキングス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする