2010年06月07日

EU3AAR連載第4幕第5回「皇帝は海を渡る」

さて、17世紀だ。神聖ローマ皇帝の地位を手に入れた我がヘッセン。ある幸運によって大きく揺れ動く事となる。

1606年2月 摂政評議会の統治。
1606年2月 神聖ローマ帝国がアドルフ 1世を皇帝に選出。

1614年10月 アドルフ 1世 フォン・ツヴァイブリュッケン(4−7−8)が新たな元首に。

1621年7月 ミラノの側に立ってヴェネツィア、サルデーニャ、ヴュルツブルクに宣戦布告。

1621年8月 イベント:「ラグーザの帝国加盟」が発生。
神聖ローマ帝国への加盟国が領土を拡張すると、プロヴィンス単位で神聖ローマ帝国への加盟を申請する事がある。

1627年4月 ミラノの側に立ってアクイレイア、マントヴァに宣戦布告。

1631年5月 マグデブルクの側に立ってバーデン、イギリス、ブレーメンに宣戦布告

1633年9月 統一的交易方針を「国策」に採用。
経済関係よりも軍事関係の方が良かったかもしれない。

1631年9月 ミラノの側に立ってブルターニュ、ヴェネツィアに宣戦布告。
1633年10月 オーストリアの側に立って対クリミア、ノガイ、シビーリ戦を主導。


1635年11月 我が国がフランスの側に立ってオーストリアに宣戦布告。

1636年9月 オーストリアが我が国の寛大な和平提案を受諾。
1637年2月 ミラノとの同盟を解消。

オーストリアと和平をした直後にミラノから対オーストリア戦への要請がある。

だけどこれは断るべきだろう。「国威」も問題ないし。

1637年5月 バイエルン、チロル、スティリア、ボスニア、アテネ、クロアチア、モルダヴィア、クレーフェがオーストリアからの独立を宣言。
フランスとの戦いの結果、オーストリアは多くの国家を独立させた。これは皇帝たる我が国にとって大いなるメリットでもある。

1646年12月 バイエルンに対する大義名分「再征服」を獲得。
1646年12月 バーデンに対する大義名分「再征服」を喪失。

プファルツの所有権がバーデンからバイエルンに移る。当然の事ながら大義名分もバーデンからバイエルンに移る。

1647年12月 ルードヴィヒ 2世 キルコフ(5−3−3)が我が国の新たな元首に。
1647年12月 神聖ローマ帝国がルードヴィヒ 2世を皇帝に選出。

ツヴァイブリュッケン家は絶え、キルコフ家がヘッセンそして神聖ローマ皇帝の地位へと就く。

1650年3月 摂政評議会の統治。
1650年3月 神聖ローマ帝国がカール 1世を皇帝に選出。


1657年5月 オルデンブルクの玉座を継承。
1662年1月 アラゴンの玉座を継承。

ここで立て続けに継承が起こる。オルテンブルクの継承により海に面するプロヴィンスを手に入れた。

アラゴンの継承は今までに無い規模の継承劇だ。

1662年12月 カール 1世 キルコフ(5−6−8)が我が国の新たな元首に。

1663年1月 バイエルンに対して第3次プファルツ再征服を開始。
1664年3月 バイエルンが我が国の寛大な和平提案を受諾。
1664年3月 アンスバッハがバイエルンからの独立を宣言。
1664年5月 バイエルンに対する大義名分「再征服」を喪失。

この戦争も全く問題なし。

1664年12月 黄金海岸の先住民が植民地を襲撃。
アラゴンから継承した黄金海岸をここで失う。

1667年3月 施政方針:ピレネーにて神聖ローマ帝国への加盟を決定。
我々が継承した旧アラゴン領も次々と神聖ローマ帝国の版図とみなされる。

1668年9月 オルデンブルクが改宗。

1670年12月 アンスバッハの側に立って対バイエルン戦を主導。
1671年9月 バイエルンが我が国の寛大な和平提案を受諾。


1674年1月 我が国がユトレヒトに対して侵略戦争を開始。
オルテンブルクの継承によって海に面するプロヴィンスを手に入れたものの、首都とつながっていないために新世界への入植ができない状況にある。

この戦争の目的はオルテンブルクとヘッセンを陸続きにすることにある。幸いユトレヒトは目立った同盟を結んでいない。開戦理由は無いが、安定度−2のペナルティはたいした問題でもない。

1674年8月 摂政評議会の統治。
1674年8月 神聖ローマ帝国がカール 1世を皇帝に選出。


1675年7月 ユトレヒトが和平提案を受諾。
1675年7月 ホラントがユトレヒトからの独立を宣言。

この戦争はほぼ思うとおりに推移して、オスナブリュックを取り、オルテンブルクとヘッセンは陸続きになる。ついでにホラントを独立させ皇帝の権威をさらに増した。

入植を進めるために国立銀行あたりを新世界の探索にシフトすることも考えたが、もう少しで新しい国策を取れそうなのでここはじっと我慢することにした。

1684年9月 新世界の探索を「国策」に採用。
1685年4月 ウィダへの植民成功。
1685年5月 モスキートへの植民成功。
1685年11月 バハマへの植民成功。

「統治」技術が上昇し、ついに新世界への入植準備は整った。

早速カリブ海(バハマ)、アフリカ(ウィダ)、中南米(モスキート)へと入植者を派遣する。

1685年8月 サルハンがヘッセンからの独立を宣言。
サルハンは小アジアにある。ここも旧アラゴン領だったが反乱鎮圧か困難なので独立させることにする。

1686年5月 カイエンヌへの植民成功。
1686年11月 ウィダの先住民が我が国の植民地を襲撃。

カイエンヌは南米。ウィダはこの後も原住民に襲われる。

1687年3月 カール 1世 キルコフ(5−7−5)が我が国の新たな元首に。

1687年12月 オスナブリュックが改宗。

1688年12月 スリナムへの植民成功
1688年12月 トゥクジュランディアへの植民成功。

スリナム、トゥクジュランディアは共に南米。

1692年8月 イベント:「コーヒー」発生。
「インノミネ」から入植した時点では特産品が何になるのかがわからないようになった。

入植地がある程度発展するとこうやってイベントが起こり交易品が明らかとなる。

1694年3月 バレアレス諸島が改宗
これで再び新教徒の改宗が終了した。

1694年12月 イベント:「砂糖」発生。
1695年1月 イベント:「艦船用装備」発生

カイエンヌでは砂糖がトゥクジュランディアでは艦船用装備が交易品となる。艦船用装具工場にボーナスが付く艦船用装備がきたのはうれしかった。

1695年11月 イベント:「黄金」発生。
スリナムで黄金が産出される。経済的には黄金に頼るまでも無いが、なんとなくうれしかったり。

1699年12月 シエナが教皇領からの独立を宣言。
1701年2月 ヘルダーラント、ブラバントがユトレヒトからの独立を宣言。










オルテンブルク、アラゴンの継承によって領土を飛躍的に拡張した我がヘッセン。神聖ローマ皇帝はその名にふさわしい権威を得ることができるのか。残りは約120年。
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