2010年07月05日

EU3AAR連載第4幕第6回「帝国は蘇るか」

飛躍的に領土を拡大し、権威を得た我がヘッセンは皇帝の地位をより強固にするためにさまざまな改革に乗り出すこととなった。今回はその辺を中心に追いかけていこう。

1702年1月 施政方針:宮廷裁判所の改革。
1702年1月 「シュトラールズント議会」

これは皇帝が帝国を改革するために発動する動議だ。加盟各国はこの改革に賛成か反対かを投票することとなる。

その投票の結果、賛成12、反対9で宮廷裁判所の改革は実行される事となった。

1703年7月 マインツに対してヘッセン-マインツ名誉戦争を開始。
1703年8月 マインツが和平提案を受諾。

1703年11月 対バイエルン、デンマーク戦を我が国が主導。
1704年3月 デンマークがウィダを奪取。

1704年12月 マグデブルクが和平提案を受諾。
1704年12月 ハンブルク、メクレンブルク、マイセンがマグデブルクからの独立を宣言。

1704年12月 対教皇領、コルシカ戦を我が国が主導。
1705年11月 我が国がメクレンブルクの側に立ってアンハルトに宣戦布告。
1705年11月 バーデンがアンハルトの側に立って対メクレンブルク、ヘッセン戦に参加。

1705年11月 ユトレヒトがアンハルトの側に立って対メクレンブルク、ヘッセン戦に参加。

まあこの辺の戦争も大きな問題なく進んだ。

1708年10月 施政方針:一般税の制定。
1708年10月 「コペンハーゲン議会」

今度は加盟各国に一般税を求めるものだ。
結果は賛成16、反対12。

1710年2月 対ブラバント戦を我が国が主導。
1711年6月 我が国がハンブルクの側に立って対マグデブルク戦を主導
1712年7月 マグデブルクが我が国の寛大な和平提案を受諾。
1712年7月 ブレーメンがマグデブルクからの独立を宣言。

1715年2月 我が国がウルビーノの側に立って対教皇領戦を主導。
1715年10月 教皇領が和平提案を受諾。

1717年3月 我が国がシエナの側に立って対シチリア戦を主導
1719年3月 シチリアが和平提案を受諾。
1719年3月 トスカナ、ピサがシチリアからの独立を宣言。

先の戦争でもそうだができる限り独立を認めることで皇帝の権威はさらに上がる。それだけではなくこの戦争で我が国は南イタリアの一部を領土とする。

1721年1月 施政方針:永久ラント平和令。
1721年1月 「ニース議会」

永久ラント平和令は加盟国間同士の大義名分を無効にするものだ。

結果は賛成15、反対11。

1724年7月 カメルーンへの植民成功。
1725年1月 イベント:「奴隷」発生。


1729年9月 施政方針:帝位世襲制の宣言。
1729年9月 「リューネブルク議会」

ついに選帝侯の地位を廃止し、帝位を世襲制へと移管するための動議を発動する。

結果は賛成16、反対11で帝位はヘッセンの君主が世襲で担うこととなった。

1731年1月 総督制度を「国策」に採用。
1739年10月 大陸軍を「国策」に採用

この頃から「神の福音」や「国立銀行」などをもっと役に立つ国策へと切り替えていく。

1742年12月 イベント:ヘッセンが「境界線をめぐる争い」において「あくまでも領有権を主張しよう」を選択。
1743年1月 我が国がシチリアに対してパレルモ再征服を開始。
1743年10月 シチリアを併合

これでシチリアに止めを刺した。

1746年1月 ウィルヘルム 1世 キルコフ(6−8−5)が我が国の新たな元首に。

1756年2月 アンスバッハを属国化。

1757年4月 ブルターニュの側に立ってティムール、ブルネイに宣戦布告。

1759年2月 大海軍を「国策」に採用。











さて次回はいよいよ最終回。真の帝国復興まであと一息というところまでたどり着いた。果たして帝国の復活はなるのだろうか?